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ずんだもちのすみのほう

まんなかのほうは、あなたへ。

暇と退屈の倫理学

こんばんは。

梅雨って困りますよね、特に洗濯物が困りますよね。

もうすぐ家に着くぞ・・・っていう直前で雨が降り始めると本当に・・・もう・・・ってなります。

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あともうちょっと早く帰れてたら、洗濯物取り込めてたのにね

 

 

 

 

 

さて、今日の本はこれです。

 

 

暇と退屈の倫理学 暇と退屈の倫理学
(2011/10/18)
國分 功一郎

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めっちゃ面白いです、倫理学が嫌いな人でなければ楽しめます。

 

 

人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。

私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない。

 

この本では暇と退屈を分けて定義し、様々な角度(原理学や系譜学、経済史など)から考察を進め、最終的に倫理学として、私たちが暇と退屈に対しどのように対処したらよいかがまとめられています。

 

 

 

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さてさて、私たち人間は暇がなかなか嫌いなようです。
本書で引用されているパスカルの言葉を借りて説明すると

 人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

というところだそう。

なるほど、当てはまるような気がします。

 

 

おとなしくしていれば良いのに、わざわざめんどくさそうな場所へ行って、わざわざ面倒くさい人に会って、生き生きと悪口言ってる人とかいますもんね。

「人ごみは嫌だ」なんて言っておきながら、連休には混雑してしまうところへ行って文句を言ったりしてしまう事もあります。

もちろん私もそういったところはありますし、いろんなところでこのような現象は起こっていると思いますので、部屋でおとなしくしていたら?で済むような簡単な話では無さそうですね。

 

資本主義が高度に発達し、人々は暇を得た。またそれは「余暇」という形で権利の対象にもなった。これはある意味で近代人がもとめてきた<個人の自由と平等>の達成でもあった。だが彼らは自分たちがもとめていたものが実際には何であるのかを分かっていなかった。

 

何をしたらいいのか分からない、自分が本当にしたいことが分からない・・
だからテレビや公告なんかで紹介されている楽しさに時間やお金を消費してしまう。
そのくらい暇から逃げたいという気持ちはどなたにでもあるのでは無いのでしょうか?

 

もしかしたら、ゆっくり過ごす休日が、退屈に侵略されてしまうくらいなら、働いて何も考えないほうが、幸せなのかも・・・と思ってしまう方もいるのかもしれませんね。
私は全然理解できませんが・・・・!!!

とにかく退屈を避けるために私たち人間は必死なようで、避けるためなら良いことだけでなく、悪いことさえ受け入れてしまっているようです。

 

 

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さて、本書の第5章で、マルティン・ハイデッカーの『形而上学の根本諸概念』を引用し、面白い説明が続くのでここで少し紹介したいと思います。

ハイデッカーは退屈を二つに分けて考えることを提案しています。
その退屈の第一形態の雰囲気はこんな感じ。

 

 

たとえばわれわれはある片田舎の小さなローカル線の、ある無趣味な駅舎で腰掛けている。
次の列車は四時間たったら来る。
この地域は別に魅力は無い。

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あちこち細部まで見たりして・・・見飽きたからお絵かきでもしようか。

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こんな感じでなにか気晴らしするたびに時計を見たりして、どうにかノロノロすすむように感じる時間をやり過ごそうとしたことありませんか?
これが第一形態です。

 

さて、第二形態はこれ。

 

我々は夕方何処かへ招待されている。
だからといって、行かねばならないということはない。
しかし我々は一日中緊張していたし、それに夕方には時間があいている。
そういうわけだから行くことにしよう。

 

美味しい料理、趣味もなかなかいい。
食事が済むと何処かに腰掛けて、音楽を聴き、雑談する。

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そろそろ帰る時間だ。

 

 

婦人達は、ほんとに楽しかった、とっても素晴らしかったと確かめ合うように何度も言う。
その通りだ。とても素晴らしかった。
会話も、人々も、場所も、退屈ではなかった。

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帰宅するすると、夕方中断していた仕事にちょっと目を通し、明日の仕事についておおよその見当をつけ、目安を立てる

------するとそのとき気がつくのだ。

 

私は今晩、この招待に際し、本当は退屈していたのだ、と。

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うむ、たしかにこんな経験あるかも・・・!

 

 

この第二形態については、退屈を紛らわす為のパーティーなのに

退屈してしまっている、という現象がおきています。

退屈を払いのけるものが退屈になっている。本末転倒である。私たちを救ってくれるはずのものが、実は私たちを悩ましている。しかも、その救いと悩みが絡み合っているがために、いったい何に困っているのかも不明である。

こんな体験はみんなしたことがあるのでは無いのでしょうか?退屈したくなくて出かけたのに、結局退屈してしまう。なんとなく暇しているのが嫌で、気晴らしがしたい。
その気晴らしが実は退屈だったりする。

 

よくよく考えてみると私たちの生活は何のためやらよく分からない気晴らしに満ちている。

たしかに、ツイッターとかこのブログなんかもそうですね!
私からしたら本を読むのも気晴らしです。

 

必要だと思っていることさえ、もしかしたら気晴らしかもしれない。

本書ではもしかしたら受験勉強だって、あくせく働くことすら、もしかしたら気晴らしなのかもしれない、とされています。(受験生がもし、この文を読んだら怒るだろうな・・・ごめんね!)

しかし必要だと思ってやっていることが、本当は退屈に耐えられなくてただ続けてやっているだけ、っていうことありそうですね。

 

 

さて、そんな退屈の形態や、それを打破するための気晴らしについて、こんな感じで考察したあとに、倫理学としてどのように暇と退屈に向き合うかがまとめられています。

 

この結論は少し・・・というか結構納得できませんでしたが、(それまで丁寧に説明してくれてたのに、結論だけはめちゃくちゃ雑にまとめられた印象でした)退屈に関して考える機会が出来てよかったです。

 あと、まえがきとあとがきの文章が、なんか村上春樹の小説の主人公並にポエティックっぽいのが気になりましたが、他はとても満足。

 

 

 

実はハイデッカーの考える退屈は第三形態があって、凄く共感できますし大切なところなのですが、ここでは載せず、本書に譲ります。

とにかくその第三形態が全ての根源のようですが・・・・気になった方は本を読んでみてください。

私のこの変なブログの文書でも、読んで気になった方は是非一読されることをお勧めします。

 

 

よし、今日はここまで!

 

 

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